ほんとはヘルプ・ミー

ギリシャ問題が先送りされ、ひとまず落ち着いたように見えます。元来、彼らの国民性に由来するもの、いつかまた債務問題は再燃するのでしょう。しかし、都心のデモで要求を声高に主張する人たちはともかく、彼の国の田舎町で暮らすホスピタリティーにあふれた心優しき人たちにはずっと穏やかに生きていてほしいと願います。

朝3時前に起きての新聞配達にはじまり、学校、ジム、就職活動、そして夜のアルバイトと殺人的に多忙な日々を送り大学卒業前の秋、念願のギリシャ・クレタ島徒歩で一周の旅に向けて出発しました。目的地のクレタ島に降り立ち、海岸沿いを20キロのバックパックを背負い地図も見ずに歩き始めました。今にも降りだしそうな空と、紺碧からはほど遠い灰色のエーゲ海を右に見ながら、休憩もほとんどとらずに歩き続け、やがて日没近くになると川原に寝袋を広げ、その上でフランスパンをほおばりはじめると案の定雨が降りはじめました。(そういえば、秋の地中海は雨期と中学の頃習ったっけ。もっと勉強しておけばよかった・・)。 このまま寝てしまおうかそれとも歩き続けようか。迷う間もなく雨は強くなるばかり。(あかん、寝とったら死ぬわ)。雨の中、真っ暗な夜道を再び西へ向かって歩き始めました。時折、トラックが通るものの、日本男児がこんなところで助けを求めてなるものかとひたすら歩く。数時間後、疲労といつまでも降り続く雨とで半泣きになりかけたころ、後ろから来たトラックがクラクションを鳴らしながら止まりました。(よっしゃ!)。拾ってくれたのはこの島に住むアレックスという同年齢の青年でした。全身ビショ濡れにひきつった笑顔。カッコ悪いなあ、と思いながらも精いっぱい“余裕”をアピールしていました。「食えよ」と手渡された二の腕ほどもある土のついたキュウリ(ヘチマ?)をかじり尽くしてしまう頃、目的地に到着しました。差し出したわずかばかりのお礼も受け取らずに彼は行ってしまいました。

深夜、扉を叩いた宿の主は、満室だったのに突然訪れた迷惑な日本人のために屋根裏部屋を空けてくれました。困った時には人の情けが本当に身に染みるものです。彼らはどうしてあんなに親切だったんだろう。古き良き時代だったから?、クレタ島という田舎町だから?、それとも個人の性格によるものなのか。アテネで自分たちの権利のみを主張する人たちの顔・顔・顔を新聞で眺めながら、大変世話になりながら顔さえ思い出せない田舎町の人たちのことを考えていました。

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