エア・ポート、いまむかし
弱ったなあ、どうしよう・・・。関西国際空港午前0時過ぎ。空港内の某飲食店に厨房機器数点の搬入にやって来たものの、持ってきた冷蔵庫が左側の壁と右側の配電盤の間の寸法が1センチほど足りずスペースに収まりきらないトラブル発生。お客様が他社よりとった見積書の型番に合わせて当店も提出したとはいえ、受注してしまった以上、リニューアルオープンまでになんとしてでも格好をつけなければならない。取り敢えず、他の機器を全て定位置に設置してから考えようということで、職人さんたちと共にロビーを通って搬入用エレベーターと現場を暗澹たる気持ちで往復していました。・・と、よく見ると照明が少し落ちたロビーでは、ここで夜を明かす若者が数名、コートを被って横になったり、パソコンでメールやネットを楽しんだりと、寝る前の時間を思い思いに過ごしている。う~む・・・。ネットは無かったが、たしか自分にもこんな時代があったっけ。
今を去ること26年前。今で言うところの自分探しの旅を終え、帰国するためイスラエルのベン・グリオン国際空港に居ました。早朝6時の便なので、4時半頃にはエル・アル航空のカウンター前にいなくてはなりません。船での入国時には、ギリシャの港での乗船手続きに、あれこれと同じような質問を40分以上もされ続けて辟易したことを思い返せば、90分前必着というのは決して誇張ではないと思われ、そこで夜を明かすことにしたのでした。因みにその昔、この場所で日本赤軍メンバー3名が、無差別乱射事件を起こしたことなど恥ずかしながらこの時の私は知りはしませんでした。さて、翌朝の出発に向け、航空会社カウンター横の壁際に寝袋を広げ、手洗いで洗面を済ませてから今夜の寝床に戻ろうとしたその時、目つきの鋭い一人の男に呼び止められました。
「あれはお前の荷物か」とカウンター横の寝袋と荷物を指さす。そうだと応えると、どこから来た、何の目的でここに居る、預かったものはないか、など矢継ぎ早に詰問される。何度も何度も繰り返される同じような質問に10分近くも答え続け、「早く戻れ」とやっと解放されました。荷物の中に爆発物をしかけてその場を去ってしまうというトラディショナルなテロリストとの疑いを持たれていたとはその時には気付きませんでした(やれやれ、トイレに行くのにもひと苦労かい)。後年、モサド(イスラエルの諜報機関)に尾行されたことあるでぇ、なんて友人には冗談をとばしていましたが、全く気付かぬままどこからか監視されていた薄気味悪さ。こんな平和な顔したテロリストがおるか、ばぁ~かと、尾行・監視していた男に日本語で言ってやればよかったかもしれませんね。
そうそう、冷蔵庫でした。冷蔵庫は口八丁手八丁でワイルドな職人Yさんの「持って帰って切ろう」とのワイルドな提案で当店に持ち帰り、扉のヒンジ部を少しかわして左右約7ミリずつ切断、断熱を再度施して、と大手術の上後日無事納めることができました。
再び訪れた深夜の関空。トラブルをなんとか乗り越えた安心感から、今回はロビーの若者たちを観察する精神的余裕もあります。それにしても、みんな理知的で落ち着いて見え、ほころびたセーターや破れたジーンズ姿などは見あたりません。キョロキョロと落ち着きなくあたりをうかがったり、思い詰めたような表情で本や日記帳に視線を落とす-恐らく当時の私のような-人の姿など見あたりはしませんでした。いつでも誰かとパソコンやスマホなどを通じて繋がっていられる彼らの辞書には、ホームシックや孤独などという文字はないようにさえ思えます。その孤独と不安こそが旅の醍醐味だと今でも私は信じているのですが。ともあれ、深夜のエア・ポート。旅立つ人たちに夢よ多かれ。ついでに、その傍らでドタバタと立ち働く労働者たちにも・・!